彫金師として技を極めるために、日々修行に明け暮れる。
父親の家業を継ぐことにした八重樫氏は、兄の弟子となり職人の道を歩み始める。現在まで一度も辞めようと思ったことはなかった同氏だが、駆け出しの頃は少なからず迷いが生まれたこともあったそうだ。「レストラン勤務から金具職人になったらあまりにも仕事の内容が違うので、戸惑いを感じたんです」。そんな時、二代目である父が作品を褒めてくれたという。「親父は昔気質の職人。とにかく厳しい人でした。私の兄が怒られている姿は、何度も見て育ちました。そんな親父が怒ることもせず、私には褒めてくれたのです。怒ったら辞めると思ったのかもしれません(笑)」。と、謙遜気味に話してくれた。さらに、どれだけ時間がかかってもいいからいい品物をつくれ。1回手を抜いたら後は戻れないからと、何度も言われ続けたそうだ。修行時代の職人にとって、一つの作品にいくらでも時間をかけても良いという言葉は、精神的にも助けられたという。迷いが無くなった八重樫氏は、誰の指示でもなく自分の意思で毎朝3〜4時ぐらいに起き、夜は11時ぐらいまで修行に励んだ。そんなに長時間も!と驚くと「職人としては、普通ですよ。全く、苦だと思ったことはありません」と平然と答える。父親はきっと、八重樫氏の職人としての気質を見抜いていたのだろう。
震災で大切な道具を失うが、1からやり直すという気持ちで前に進む。
仙台箪笥の金具をつくる道具は、鏨(たがね)というもの。実はこの道具はどこにも売ってはいない。全て職人よる手づくりだ。八重樫氏も下絵の輪郭を彫る時、打ち出した文様の周りを切り落とす時など、全ての工程で使う鏨をつくっている。「絵柄に合わせてさまざまな鏨が必要になるので、約1300本を超える種類の鏨をつくりました」。まさに鏨は、八重樫氏の創造を形にしてくれる相棒だが、この大切な相棒を失ってしまう出来事があった。2011年3月の東日本大震災だ。「この工房は海から5kmほど離れていて、まさかここまで津波が来るとは思わなかったんです」。ほとんどが海に流され、残ったものも海水に浸かって使い物にならなくなったという。父親に譲られた道具も含め、全てを失ってしまった喪失感は計り知れない。だが同氏は決して諦めることなく、また1から道具をつくり始めた。現在、やっと震災前の半分ぐらいまでつくりあげたそうだ。なぜそこまで前向きになれるのかを伺うと、「小学生の時に仙台空襲、その後もらい火事にあいました。1からやり直すことを2回経験しているので、今回も頑張ればなんとかなるんじゃないかっていう気持ちがありました」。道具だけではない。出来上がっていた飾り金具まで津波で塩水に浸かってしまった。「東京からそれを売って欲しいという人が来ましたが、売りませんでした」。海の塩で表面が錆つき、ザラザラしてまった飾り金具は、決して同氏が納得できる良い作品ではない。売らなかったのは、同氏の職人としてのプライドがあったからだ。
機械の製品に負けたとは思わない、職人としてのプライド。
現在、仙台箪笥の金具職人は宮城県内でもわずか数人しかいない。八重樫氏は数少ない職人の一人だ。職人の減少の理由はさまざまだが、そのような中、飾り金具の機械化も進んでいる。職人による手作業では半年以上、長いものは年単位での時間を要するため、制作期間という視点では機械には敵わない。だが同氏はそこに脅威を感じたことは一度もないという。「機械に負けたなんて、一度も思ったことないですよ。機械ではできないものをつくっていますから」。確かに工房を見渡すと、他では見ることができない八重樫氏のオリジナルの絵柄が多い。これほどの斬新さ、仕上がりの美しさは、確かに機械ではできないだろうと納得させられる。「仙台箪笥は民芸品だと言われていますが、私は美術品だと思っています。だから、常に新しいものをつくりたいんですよ。難しい絵柄を依頼されればされるほど、嬉しくなります。新しいことに挑戦できるわけですから」。同氏は、お客様からの依頼を断ったことがない。それは断るのは職人として恥だと思っているからだという。
八重樫氏は、これまで弟子をとったことはない。良いものをつくり続けるために、自分自身に集中したかったという理由からだ。「この仕事をあと5年は続けたいと考えていますが、今だったら良い人がいれば、一人ぐらい弟子を取っても良いかなと思っています」。八重樫氏の職人としての気概、精緻な技を継承する、職人の登場に期待したい。