なまはげは、男鹿半島内の地域ごとに顔が全く違う。
なぜ、こんなにも多くのなまはげがいるのか?その疑問をぶつけてみる。「実はなまはげは、集落ごとに顔が違います。その地区に住む人間が身近なものを使って面をつくるからなんです」。確かによく見ると、顔の表情だけでなく、テイストも、使用している素材も全く違う。「ここには現在、約60集落の100体以上のなまはげが展示されています」。なまはげは、大晦日の行事以外で使用されることがないため、外に出ることはない。地元の人でさえ、自分が住んでいる地域以外のなまはげを見る機会はそう多くない。だからこそ、これだけ多くのなまはげを一堂に見ることが出来る場所は貴重なことであると理解した。現在、男鹿半島でなまはげの行事を行っているのは、約90の集落だそうだ。「大晦日ぐらい一家団らんで過ごしたい、朝から御膳料理をつくるのが嫌、行事の後掃除をするのが面倒くさいなどの理由で、なまはげを断る家が増えてきました」。だが、2018年に「ユネスコ無形文化遺産」に登録されたことをきっかけに、復活した集落が約10あるという。「何百年も続いているこの文化行事には、人として一生懸命に真面目に、怠けることなく、助けあいながら、汗水たらして生きていきなさいという教えもあります。ユネスコをきっかけに、改めて原点に戻ってみんなで考えていきたいと思っています」。
なまはげ面は、綺麗で美しくなければならない。
なまはげは、どんな顔?と問われると、おそらく多くの人が同じ顔を浮かべるだろう。それが、石川千秋氏のなまはげだ。先述したように、本来なまはげの面は行事のある大晦日だけ使用し、その集落から外に出ることはない。行政がなまはげを全国的にPRしたいと考えた時に、先代にあたる石川千秋氏の父に制作を依頼。それ以後、テレビなどのメディアで取り上げられる際は石川面が使用されるようになった。なまはげ=石川氏がつくる顔、と全国的に認識されていることに「先頭に立つ顔として選ばれたことに大変誇りを感じていますし、光栄に思っています」と話す。石川氏は20代前半で、面彫師を始めたが、実は一度職を離れている。「若い頃はこの仕事に馴染めなくて、一度全く違う仕事につきました。でも外に出るとね、面彫師という仕事の奥深さと良さに気づいて戻ったんですよ」。先代はいわゆる昔気質の職人。言葉で具体的な教えは何一つなかったと言う。「父が亡くなるまでに、1〜2回しか教わってないですね。目の輪郭と黒目の入れ方を指導されました」。なまはげの顔は、目が命。目の描き方で印象は全く違うものになってしまう。石川氏は今でも、特に目にはこだわっているそうだ。「自分で怒った顔をつくり、鏡で見ながら参考にすることもあります。先代から“綺麗で怖い顔”を目指せと言われましたが、この言葉は今でも忘れず心がけています」。
つくり続けることで、見えてくるものがある。
なまはげ面彫師という職業は、これまで先代と石川氏の二人しかおらず、現在は石川千秋氏ただ一人。そのような競合がいない状況であったが、石川氏の作品が世に出たのは、始めてから10年以上経ってからだと言う。「ライバルがいないんだから、すぐに商品として販売されると思ったんです。でもなかなか先代に認めてもらえなくてね」。だが、次第に石川氏も職人としての審美眼が養われていく。2代目として世の中に出ている作品が多いにも関わらず、未だに納得した作品は出来ていないと断言する。「良いものが出来たなと思うのは、出来上がった時の一瞬だけ。直ぐにアラが見えちゃうんです」。高度な技術レベルに達した者にしか理解できない視点だが、この思いが作品づくりの原動力になっている。「良いものをつくるには、新たに作品をつくるしかない。次はもっと良いものを、とつくり続けていくしかないんです。仕事が仕事を教えるって言うでしょ。まさにその通りで、継続していくことで身につくもの、見えてくるものがあるんです」。先代が亡くなったのが4年前。全て一人で制作を行うようになると、面彫師2代目としての重みを改めて自覚するようになったそうだ。「先代が残したデザインを自分なりに改良しながら、死ぬまで良いものをつくっていたいですね」。綺麗で怖い面、その進化を期待して見続けていきたい。