第12回 神奈川県 横田宗隆オルガン製作研究所様

諦めきれなかった、パイプオルガン建造家への夢。

パイプオルガンに魅了された横田氏であったが、音楽や芸術を生涯の生業にしようと当初は考えていなかった。「父も祖父も銀行員という家で育ったため、音楽は趣味にとどめてきちんとした職業に就こうと思っていたんです」。経済学部に進学したが、確固たる意義を持って入学してきた仲間に引け目を感じることもあったという。そんな自身への苛立ちや将来への不安を感じていた時に転機がおきる。同氏は高校、大学とフィールドホッケーに汗を流していた。人一倍努力も重ね相当な自信もあったが、どんなに頑張っても適わない人間がいることに気づかされる。「落ち込みましたが、もっと自分に適していることを見つけて夢中になろうという気持になりました」。改めて好きなもの、得意なことを並べると音楽、数学、物理、工芸、図画工作…これらを全て活かせること「やはりパイプオルガンの製作に辿り着くんですね」。隠していた思いに火がついた同氏は、大学3年の時にオルガン建造家の辻弘氏の門戸を叩く。しかし返事は、10年間修行をする気があるのならオランダの会社を紹介するというものだった。半年以上迷い悩んだ末、同国での修行を決意。覚悟を決めた思いを手紙にして渡すと「こんなに熱心なら、私の所に来なさいという予想外の返事が帰ってきました」。横田氏の情熱が人の心を動かし、勇気は彼自身の運命を変えた。横田氏は、大学卒業後、正式に辻氏の弟子となった。

伝統的なオルガン製作方法を、世界で初めて現代に蘇らせることに成功。

辻氏の下で学んだ横田氏はその後、様々なオルガンを見るためにヨーロッパを巡る。しかし近年につくられた新しいオルガンには感動せず、むしろ250~300年前のものに興味が湧いたという。「新しいオルガンづくりをしながら古いつくり方を研究しているアメリカの建造家を紹介してもらい、改めて修行を積むことにしました」。日本からアメリカへ。当初は予定していなかった選択だが、それが横田氏の運命を光りの射す方向に導く。修行時代に携わった仕事が楽器製作関係者の目にとまり、カリフォルニア州立大学から設計・製作の依頼を受けたのだ。心からパイプオルガンを愛する同氏は、敬意を表し250年以上も行われていなかった伝統的な「オンサイト・コンストラクション」という方法での製作に挑むことを決意する。「この製法は注文を受けた土地で生活しながら、大工や指物師、建具師、金工師、彫刻師など、現地のスタッフと一緒に現地の材料を使用してつくるというものです」。あまりにも前時代的なつくり方のため、完成させることは不可能という否定的な声も数多くあったという。しかし6年という月日を費やし、世界で初めて現代に蘇らせることに成功。「職人は皆オルガン製作においては素人ですが、各分野のプロだから結果として優れたものが出来上がるんです」。横田氏がこの製法を選んだのには、もう一つ理由がある。それは「一つの目的のために皆で頑張る」という、横田氏が最も好きな姿勢を取り入れた製法だからだ。

後継者を育て、パイプオルガンの文化を日本でも普及させたい。

アメリカでの功績が認められた横田氏はその後、スウェーデンや韓国など、世界を舞台に活躍。学術書の執筆やセミナーでの講演など活動の領域を広げていると、世界各国の人達から“これだけの技術を習得したのだから、若い人を育てなければいけない”と、助言されるようになった。「私自身も60歳の頃から後継者のことを意識するようになっていました。そんな矢先、スウェーデンまで訪ねてきた日本人がいたんです」。加藤万梨耶氏だ。しかし、直ぐに教えることはせず、少し厳しい言葉を投げかけたという。「楽器の歴史、理論、美学といった学問的な習得はもちろん、エンジニアとしての知識、技術も学ばなければならない。修行期間も相当長くなる等、時には辛辣な言葉を交え本気度を試しました」。なぜなら、やる気があっても途中で逃げ出してしまう人達を横田氏は海外で何人も見てきからだ。加藤氏は生半可な気持ではできないことを十分に理解したうえで決意。横田氏も彼女のやる気を認め、晴れて弟子となった。その後、日本人の弟子とオルガンをつくり、より多くの後継者を育てるなら日本でやりたいと考えた横田氏は、実に38年ぶりに帰国。相模原市緑区に工房を構えた。「ここは自然に包まれていて、芸術家や工芸家が多く住んでいます。住民の方達と交流しながら製作ができる、恵まれた環境だと思います」。相模原の地で、相模原の人達と一緒につくりあげるパイプオルガン。製作者全員の情熱が込められたその音色を聴けるのが、今から待ち遠しい。